日本の農業が抱える課題として必ず挙げられるのが、深刻な担い手不足です。一方で、多くのアスリートは、引退後のセカンドキャリアに不安を抱えていることをご存知でしょうか。
この一見交わることのない2つの課題をつなぎ、新たな価値を創造しているのが、農業生産法人(株)エイジェックファーム(以下「エイジェックファーム」)です。エイジェックファームは、野球選手を主軸にアスリートを雇用しながら、農業の現場で新たなキャリアを築くサポートを行っています。
農業とアスリートの相性は、本当に良いのでしょうか?
ミスマッチを防ぎ、彼らを組織の力に変える秘訣はどこにあるのでしょうか。
本記事では、エイジェックファームの事例を元に、全国の農業経営者が明日から実践できる人材獲得と組織づくりのヒントを解き明かします。
原点は“選手の寂しさ”と“冬の仕事”。偶然から生まれた事業モデル
「せっかく全国から私たちのところへ来てくれたのに、引退したらすぐに地元に帰ってしまうのは寂しい」と、語ってくれたのは、エイジェックファーム執行役員社長の荘司拓紀(しょうじ・たくのり)氏です。
(本取材を快く受けてくれたエイジェックファーム執行役員社長・荘司拓紀氏)
エイジェックファームの事業の根幹には、野球への情熱と選手たちの未来を案じる想いがあります。
多くのアスリートは競技に没頭するあまり、引退のタイミングで初めて自身のキャリアと向き合うことになります。そんな彼らにとって、競技を続けながら農業の経験を積めるエイジェックファームは、まさにセーフティーネットの一環になっているのです。
しかしこの“農業×アスリート”というユニークな事業は、単なる理想論や情熱だけで生まれたわけではありません。その始まりには、極めて現実的なビジネスチャンスがありました。
きっかけは、株式会社エイジェックの傘下にある種苗会社ウタネの繁忙期。
春に蒔く種や苗の準備で多忙を極める冬の時期と、野球選手たちのオフシーズンがマッチしたのです。そして選手の冬の仕事として始まった種苗関連の作業が、農業へ踏み出す一歩となりました。
「種を扱うなら、栽培技術も磨こう」と、荘司氏は当時の心境を語ります。この発想がエイジェックファームの立ち上げにつながり、その挑戦を力強く後押ししたのが行政の存在でした。
当時の栃木県小山市長が「ぜひ小山に来てほしい。廃校になっている小学校を事務所として使ってはどうか」と、積極的に手を差し伸べてくれたと荘司氏は言います。
“選手のセカンドキャリアを守りたい”という想い、“オフシーズンの労働力”というビジネスとの合理性。そして“地域を活性化させたい”という行政の期待。この3つの要素が噛み合ったことで、エイジェックファームは、農業に本格参入することになりました。
素人だから武器になる。地域を巻き込む協業施策
快調な出だしに思えるエイジェックファームですが、彼らは大きな壁に直面していました。
それは自分たちが“農業の素人集団”であるという、紛れもない事実でした。しかし、彼らはその弱みを嘆くのではなく、むしろ武器に変える戦略を選びます。
「栃木だからイチゴをやらないの?とよく聞かれます。でも、周りにはプロの農家さんが大勢いる。素人の私たちが同じ土俵で戦っても勝ち目はありません」と、荘司氏。
この冷静な自己分析こそが、“農業×アスリート”を軌道に乗せたポイントです。
エイジェックファームは、自社の弱み(栽培技術)と強み(グループが持つ販売ルート)を正確に把握し、地域と“競合”するのではなく“協業”する道を選んだのです。
その象徴的な取り組みの一つが、“熟成黒たま”の開発。
スーパーでは売りにくい小粒の規格外玉ねぎは、加工用としてはむしろ好都合です。JAと連携し、大きいものは市場へ、小さいものは同社が加工用として引き取るという、Win-Winの関係を構築しました。彼らにとって地域の農家は、共に価値を高めるパートナーであり、多くのことを教えてくれる教師なのです。
(専用の機械を使って玉ねぎを約2週間かけてじっくり熟成させる)
事実、地域の農家から梱包作業を委託されたり、自社が持つ東京の販売網を活かして地域の産品を販売したりと、その協業の輪は今も広がり続けています。
「農業の素人なんで、作るより売る方が得意なんです」と、謙遜する荘司氏の言葉の裏には、自社の立ち位置を客観視し、地域全体で成功を目指すという、経営戦略が隠されています。
アスリート雇用の光と影。体育会系をどう活かし、どう乗り越えるか
地域との協業という賢明な戦略。それを支えるのが、アスリートという人の力です。特に彼らが持つ“体育会系の文化”は、農業をするうえで多くの恩恵をもたらしています。
荘司氏は、「特に野球部の選手たちは挨拶や返事がしっかりしていて、上下関係も徹底されています。農家さんは職人気質な方が多いので、そういった姿勢は好まれる傾向にありますね」と、アスリートと農業の相性の良さを語りました。
元気な若者がいるだけで現場は活気づき、地域とのコミュニケーションも円滑になります。これはアスリートの雇用がもたらす、紛れもない“光”の部分です。
一方その光の裏には、経営者が向き合わなければならない“影”もあります。
「彼らは、当たり前ですが野球で成功するために来ています。会社の命令で農業を始めても、内心では“やりたい仕事ではない”と感じている部分は間違いなくあるはずです」と、荘司氏は選手の心情を代弁します。
彼らの目標はあくまで野球であり、そのモチベーションをどう農業に向かせるかは、マネジメントにおける最も繊細で難しい課題です。
(グラウンドで栽培されているシカクマメ)
ではどうすればアスリートを農業で活かすことができるのでしょうか。そのことについて荘司氏は、次のことを語ってくれました。
「体育会系ならではの“上の言うことは絶対”という文化が良い意味で機能している面はあります。ただ、それだけでは今の時代は成り立たない。“見て覚えろ”ではなく、誰にでもすぐ活躍できるマニュアルを整備しなければ、事業の未来はありません」。
アスリートの持つ規律性という強みを活かしつつも、それに依存しない。合理的で誰にでも開かれた仕組みを構築することこそが、アスリートのポテンシャルを引き出し、持続可能な組織体制を築く道になるのです。
経営者が知るべき財務のリアル。“農業だけで儲けない”という戦略
ここまで、エイジェックファームの戦略や組織作りにおける事例を紹介してきました。
しかし多くの経営者が知りたいのは、事業の根幹を支える財務事情です。
“素晴らしい活動だが、エイジェックファームはどうやって経営を成り立たせているのか?”──その問いに、荘司氏は次のように答えてくれました。
「正直な話、スポーツと農業だけで事業を成立させるのはとても難しい。私たちの場合は、野球選手が農業に関わる時間の人件費を、農業事業だけで賄っているわけではありません。スポーツ事業の一部として成り立っている側面が大きいのです」。
しっかりとした事業の基盤があるからこそ、長期的な視点で人材育成や地域連携に投資できます。これが、エイジェックファームの揺るぎない強みなのです。
ただ、その強固な母体があっても、挑戦は常に順風満帆ではありませんでした。小山市の廃校を拠点にした当初、「上からは『土があるなら農業ができるだろう』と簡単に言われました」と、荘司氏は苦笑しながら語ってくれました。グラウンドの土は、そもそも作物の栽培に適した環境ではありません。しかし、土壌改良には数千万円の予算が必要と分かり、断念せざるを得なかったといいます。
それでも彼らは諦めず、試行錯誤の末、初めてうまくいったのはサツマイモの栽培でした。
(廃校のグラウンドにて栽培されているサツマイモ)
このエピソードは異業種参入の厳しさと、それを乗り越えるための忍耐力の重要性を物語っています。
明日からできる。アスリートから選ばれるための3つのアクション
(エイジェックファームではアスリートの育成とともに、障害者を雇用する農福連携にも力をいれている)
エイジェックファームの経験談は、私たちに多くの学びを与えてくれます。それは引く手あまたの意欲ある人材に“選ばれる農園”になるには、受け入れる側の体制と準備が重要だという事実です。
では全国の農業経営者は、明日から何を始めるべきなのでしょうか。エイジェックファームの事例から、3つの具体的なアクションが見えてきました。
アクション①:作業マニュアルの整備
「マニュアルがないと、新しい人材はなかなか定着しづらい」と、荘司氏が課題として語ったこの言葉は、多くの経営者も思い当たるでしょう。
これからは感覚的な指導ではなく、作業手順や安全管理のポイントを明文化したマニュアルを用意することが必須です。アスリートは合理的かつ体系的なトレーニングを積んできたプロですが、農業に関しては未経験者と同じため、安心して飛び込める環境作りが肝になります。
アクション②:先進的な取り組みによる魅力の創出
アスリートを単なる“体力のある労働力”として見ていては、彼らの心は掴めません。エイジェックファームがドローンのようなスマート農業にも着手するように、新しい技術を学ぶ機会を提供することも大切です。
力仕事だけでなく、ドローンの操縦やデータ管理といった新しいスキルを習得できる環境は、彼らの好奇心を刺激します。
日々の業務を通じて、昨日できなかったことができるようになるという成長の実感は、給与以上のやりがいとなり、結果として長期的な定着につながります。
アクション③:農業の未来の道筋を示す
アスリートが不安に感じるのは、引退後に社会で通用するかという将来性です。ここで重要なのは、農業を通じて、社会人としてどこへ行っても通用する力が身に付けられるのかを、経営者が意識して伝えることです。
たとえば、「この圃場の栽培計画を一緒に考えよう」と声をかけます。それは単なる作業の指示ではありません。「これは農業の知識だけでなく、物事を計画し、課題を解決する力を養う良い機会になる」と、その仕事が持つ未来への価値を共有するのです。
仕事の一つひとつを、社会で役立つ普遍的なスキルと結びつけて示すこと。それは、彼らの未来の可能性を広げる鍵になります。そして、自分の成長まで考えてくれる経営者には、“付いていきたい”と思う人材も出てくるでしょう。
まとめ
(グラウンドには収穫用の作物以外にも、栃木県が開発した品種“ゆめみどり(ニラ)”の種取り栽培も行っている)
農業は、アスリートから選ばれるセカンドキャリアになり得るのでしょうか。
今回のエイジェックファームの取材から、受け入れる経営者側の準備と姿勢がいかに重要かという、シンプルで力強い事実が明らかとなりました。
取材を通じて見えてきたのは、一人ひとりのキャリアに寄り添い、共に成長しようと真摯に向き合うことで、農業は新たな可能性を拓くということです。その舞台はエイジェックファームだけでなく、日本のあらゆる農園に広がっています。
当該コンテンツは、担当コンサルタントの分析・調査に基づき作成されています。
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